172378 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ニチジョウ。

ニチジョウ。

馬鹿の三角形


俺たちは昔からずっと友達だった。
 クラスも学年もグループすらも俺たちには無意味だった。
 表面を隔てても、内面は何も立ち入れないと思っていた。
 どこまでも真っ直ぐだった俺たちの絆。
 ねじれることなど想像もできなかった。


 All side


「さっちー鍵かぁしてっ」
「さっちーはやめろって言っただろ」
 国語資料室の開けっ放しのドアをくぐり、裕太は毎回毎回同じ台詞を繰り返す。
「いいじゃんさっちーで。さっちーはさっちーなんだよっ」
 辞書や辞書やワラ半紙のミスプリントや辞書がたくさん転がっている場所に堂々と不釣合いな教材の机を置いて、放課後は常にそこに居座る佐々木利和。三年の国語担当、まだまだ若い三十前後。
「今日はひとりか?」
 佐々木は裕太に質問を向けながら席を立ち、後ろにあった何が入っているのかよくわからない程ぐちゃぐちゃな棚に無造作に手をつっこんだ。
「竜平も上総も階段んとこで待ってるよ」
「なんだパシリか」
 裕太はポケットに手をつっこんだまま、むっとした表情になった。
「違えよ、じゃんけん弱いんだけ! つかさっちーさあ、いっつもそんなとこに隠しといてなくさないの?」
 ぐしゃぐしゃになったプリントや古びたノートらしきものが次々と下に落とされていく。よく自分の足にぶつけないなと、裕太は少し感動した。
「ばーか。俺をなめんなっつの。ほら確かこれに―――」そう言って棚から分厚く青い辞書を取り出し、それをぱらっと開いた。「あったぞ」
 にんまりと悪戯をするような笑顔に、眼鏡は合っていない。ついでに言えば年もあっていない。
「……そんなでっかくて目立つもん一発で見つけろよ」
 あきれかえった裕太は、佐々木に聞こえないような小さな声で言った。聞こえたら鍵がもらえなくなる恐れがあることぐらいは裕太にもわかる。
「ほら」辞書から出てきた銀色の鍵を裕太に投げた。「見つかんなよ」
「めずらしい! さっちーが心配してくれた!」
 宙に舞った鍵を上手に受け取って、大げさに驚いた。
「竹村の心配だけな」
「うっわ上総だけ!? ひっでー」
「おまえと入谷は別に見つかってもなんともねえだろ。でも竹村は困るだろ、お前らとつるんでることがばれたら」
「なんでだよ~」
 裕太に不服そうな顔で顔で睨みつけられた佐々木は、ひるむことなくため息をつく。
「おまえ、自分の身なり見てから言っとけ?」
 背中を丸め、制服のズボンをパンツが見えるくらいぎりぎり極限まで下げ、上履きをぺったんこになるまで踏んだあからさまな不良ファッション。
 裕太は佐々木に言えわれた通りに自分の格好を見直し、それから表情を思いっきり「わかりません」の顔に変えた。
「……おまえがそこまでばかだったとはしらなかったよ」
 さっきよりもよりいっそう大きいため息をつき、肩まで落とした。
「うっわさっちー今頃気づいたんだっ」
 背中を丸めているせいで首が前にでてしまい、裕太の首はまるで鶴のようだ。
「そうだよ。ほら、竹村と入谷待ってんだろ? さっさと行け」
 佐々木はシッシと虫を追い払う動作をしながらまた机に戻った。
「さんきゅーねっ」
「見つかっても俺のこと言うなよ」
「あー、ごめん無理だし。じゃ!」
 裕太は言い逃げして走り去った。
「あいかわらずでっかいくせに、ガキだな」
 走り去った残像に話しかけた声は虚しく空気に散って、すぐに消えた。佐々木がそう言いながら、少年特有の不安定さを兼ねそなえた裕太を心配していることは誰にもわからなかった。




「遅え」
「遅かったね」
 屋上前の階段で、竜平と上総がしゃがんで待っていた。
「わりい、さっちーと長話ししてた」
 わりいと言いながら、本当に反省していることはありえない。裕太はごまをするような笑い方で残り四段の階段を跳んだ。裕太の足の裏に重たい震動が響く。
「重てえ跳び方だな」
 立ち上がった竜平がどしんと着地した裕太を見下ろしてばかにした。
「しょうがないじゃん、裕太でっかいんだから」
 上総の言う通り、裕太の身長は中学三年で百七十五センチメートルまである。それに比べ、竜平と上総は平均的な百六十を少し上回る程度だ。
「縦も横な」
 竜平が鼻の辺りの皮膚にしわを寄せて笑った。竜平はいつもこうゆう笑い方をする。それなのに鼻にしわがつかないのを、裕太はいつも不思議に思っている。
「うるせえなあ。今だれが鍵持ってんのかわかってんの?」
「おまえだろ? さっさと開けろよ」
「お願いしますとかあるだろフツー」
 そう言いながらやっぱり屋上のドアに鍵を差し込む裕太。
「は? なんで俺がお願いなんてすんだよ」
 笑いながら言葉を返す竜平。
 二人のじゃれあいを、上総は静かな笑顔で見守っている。裕太や竜平と違い、制服を学生らしくきちんと着こなしているせいで、上総の笑みは二人と並ぶと優雅にも見えた。髪の毛が黒く、さらさらとシャンプーのCMのように綺麗なせいもあるだろう。
 竜平と裕太がじゃれあいながら、開閉式のドアが開いた。室内では感じ取れない春の匂いがした。若葉の匂いと、肌に触れる暖かい空気。三人とも、学ランに包まれた体でもその暖かさは悠に感じ取れた。
「うお、いい天気じゃん! さっきまで曇ってなかった?」
「裕太、今日はずっと晴れてたよ。頭おかしくなった?」
 外に出ていきなり騒ぎ立てる裕太の台詞を、後ろから上総が苦笑で訂正した。
「おめーばかだろ!」
 竜平が爆笑しながら冷やかす。
「うるせえ! 家から学校までずっと日陰なんだよ!」
「裕太、それ言い訳成り立ってないって。学校にいる間は何見てたの?」
「学校は寝るためにあるんだぞ?」
 裕太としては至極真面目に答えたつもりなのだが、その真面目さが逆に笑われる種だということを、裕太は人生の中で一度も気づいたことはない。
 とうとう上総にまで吹き出されてしまった。
「うわ、上総にも笑われたよ!」
 両手を学生服のポケットにつっこんで―――と言ってももちろん、そのズボンは変形済みのなだが―――身長に見合わない幼い顔を楽しそうに笑顔に変える。
 こういった三人だけの瞬間は少なかった。その分、よけいに三人で笑えることが嬉しいのだ。裕太も竜平も上総も。
「おー、風きもちーな!」
 春一番はとっくに過ぎたが、春一番並みの強風はいまだに健在。
竜平の短く切りそろえた真夏のように明るい茶色の髪の毛が目立った。その手にはすでに煙の立っている煙草がある。
「その風を汚しながら何言ってんだよ」
 思いっきり目つきを鋭くして睨む裕太。
「ひがむなよ禁煙野郎」
 その目をさらりとかわして茶化す竜平。
「座ろう?」
 上総が竜平と裕太の背中を押しつつ、二人をなだめる役割を兼ねて笑顔で言った。大体こうゆう時の上総の笑顔には、しょうがないな、という気持ちが表れている。
 上総にそう言われて、やっと三人は座った。
「なんか上総ってオトナなんだよなぁ」
 裕太がしみじみと言った。
「いや、おまえがガキなんだよ」
「僕からしたら二人とも変わらないけどね」
 常に一枚上手をいく上総。小さい頃から、気づけばいつもそうだった。二人よりも一回り小さい上総が、いたずらでやんちゃ坊主な二人をおさめる姿は大人側からすれば微笑まし限りだった。その代わり、大きくなるにつれて上総は常にいい子で、裕太と竜平だけが悪者扱いされるような傾向が見られた。実際いたずらをするのは裕太と竜平だけだから間違ってはいないのだけど。
 上総の学校での順位が上がっていくほど、学校で三人そろっている姿を見かけることは少なくなった。不良と優等生がしゃべるとどうしても脅しているようにしか見えない。また優等生の上総としゃべると、裕太も竜平もばかにされた。上総も、周囲の人間から心配された。
 不良と優等生は交友を持つべからず。
 いつの間にか広がっていた、不良仲間での暗黙のルール。不良にとって優等生はばかにするための玩具であり、優等生にとって不良は恐るべき存在だった。
 この学校で平和に過ごすには、三人はばらけるしかなかった。それがルールだから。
 と言っても、そう簡単にばらけられるほど三人の中は軽いものでがなかったし、そんなルールを守れるほど三人は利口じゃない。上総のためにばらけたフリはしたものの、週に一度は必ず放課後に立ち入り禁止の屋上で遊んでいた。屋上の管理の佐々木以外は、三人が一緒にいることを知らない。
「上総、年下のくせに生意気だぞてめえ」
 少しだけ諭すように竜平が言った。
「竜平と裕太の教育の賜物だよ」
 静かな笑顔で竜平と同じようにさらりとかわす。実際、こういうところは本当によく似ている。
「そうだ上総、敬え」
 竜平と上総の間に流れた微妙な空気を知る由もなく、裕太がのけぞるようにえばって言った。
「あ、それはちょっと無理かな」
「なんでだよ!?」
 情けない声で、情けない顔で裕太が聞く。
「決まってんじゃん。おまえが―――」
「裕太が―――」
 “おまえ”と“裕太”の言葉が重なって、
「ばかだから」
 最後の言葉も重なった。
 その言葉で爆笑する声は、屋上中に響いた。その日はたまたまドアの鍵を閉め忘れたことと、そこから三人を見て陰湿な笑みを浮かべる人間がいたこと。笑い声が響いて、気づく余裕すらなかった。


 Ryuhei side


 なんでだ? なんでこうなった? なんであいつが、上総を。
 ホームルーム中の教室を次々横切り、俺は五組まで向かっていた。一階にある国語資料室から一番遠い、四階の隅にある教室。
 今日は一日の授業が終わっても、学校で上総の姿を見かけることはなかった。たとえ声を交わすことがなくても、上総は何かしら理由をつけて三年の廊下にやってくる。
俺と裕太の顔を見に来るんだ。怪我をしていないかとか、呼び出し食らってないかとか、色々心配して。裕太は絶対気づいてねえだろうけど。
 大抵の口実は誰かしらの先生に用があるから。そのせいで俺や裕太のグループに目をつけられてることぐらい、上総ならわかってる。それでも毎日やってきた。
 それなのに今日は一度も姿を現さなかった。
 昨日屋上で話していた時は全然気づかなかったが、もしかしたら風邪でもひいたのかもしれない。そう思って、ロングホームルームを堂々とサボって国語資料室へと赴いた。
 ……確かどっかの副担だった気がするのに、佐々木が本当に資料室にいた時はさすがに俺もびっくりしたけど。
 佐々木だって教師のはしくれ、生徒の出欠席ぐらいわかるだろう。わかっていてもわからなくてもどちらにせよ、俺が上総について質問できるのはこいつしかいないからしょうがない。
―――じじい、上総今日学校来てんの?
―――おまえ聞いてないのか?
 いつもなら何より先にじじいと呼んだことを咎めるのに、今日はそれより先に驚いていた。
―――何を?
 佐々木の驚いた表情に、何か悪寒がしたような気がした。起きないでほしいと思っていることが、起きた?
―――竹村、とうとうやられたんだよ。
 上総が。
―――誰にだ!?
 そう聞くと、佐々木の顔に迷いが生じて顔をそらされた。気まずそうにして、やっと口を開こうとした佐々木の言葉を、俺がつないだ。
―――裕太、か?
 その言葉で、佐々木の顔が痛そうに歪んだ。イエスかノーかはそれだけで充分だった。
 俺は舌打ちしてすぐに部屋を出た。後ろで佐々木が俺の名前を読んだが振り返らなかった。
 ちくしょう! いつかこうなるかもしれないと、気づいていた。俺は今んとこグループの頭だからその心配はないけど、裕太の地位はそんなに高くない。それにあいつは、ガキだ。あいつのグループは今年から高山と城田が頭だったはず。陰険なあいつらのことだ。俺らの仲がバレたらやりかねないことぐらいわかってたのに!
 どこかで安心しているところがあった。立ち入り禁止の屋上、週に一度だけの集まり。携帯にも登録はしていない。佐々木しか知らない俺たちの中。
 それでもいつまでも秘密にはできないことぐらい、気づいていたのに。きっと屋上で会っているのを見られたんだ。でもまさか、高山や城田に見つかるとは。
 三年五組の前。引き戸式のドアを思いっきり勢い良く開けて裕太を探した。五組の担任のミズシマが一瞬びっくりした後に怒鳴った。副担の誰だか名前の忘れたじじいもそれに続いて怒鳴った。
 てめえらは関係ねえんだよ。
 窓際の後ろから二番目の所に、いた。少し怯えながら、必死に虚勢を張ろうとする子犬みたいな目で俺のことを睨む裕太が。
 俺はそのままミズシマと生徒の間をまっすぐ進んだ。それから曲がって裕太のところに行こうとしたら、名前のわかんないじじいに腕をつかまれた。
「何してるんだ! ちょっと来い!」
 てめえが何してんだよ。
 後ろにあるじじいの膝を思いっきり蹴りつけて、腕を払いながらついでに腹も肘で殴ってやった。感覚で、鳩尾にもろに入ったのがわかった。
 気味の悪い声をあげてじじいがよれっと倒れた。たぶん吐くだろう。今までの喧嘩の相手もみんな吐いていたから。
 いつもなら騒ぐはずの野次馬が静かだった。数人の女子の嗚咽が聞こえるだけだった。
 俺が裕太の方を改めて睨むと、裕太も怯えながら必死こいて睨み返してきた。
 どうしておまえはいつまでもガキなんだ?
「裕太!」
 そのまま、裕太の席まで苛立ちながら歩いていく。後ろの方から、聞きなれた汚物の床に飛び散る音と、甲高い女子の悲鳴が聞こえた。男子の嫌悪の声も聞こえた。ミズシマの慌てる声も聞こえてきた。ばばあと言ってもミズシマだって一応女だ。俺のことを止めに入らなくてよかった。女に怪我をさせるのはできるだけ避けたい。そう考えながら、裕太の目の前まで来た。
 一度裕太を見下し、睨み返す裕太の胸倉をつかんだ。
「てめえ何したかわかってんのか?」
「離せよ」
「答えろ。わかってんのか?」
「うるせえよ離せ」
 もう一度、女子の悲鳴が耳に残るほど聞こえた。裕太を殴った拳は痛くなかった。感覚麻痺。イスから吹っ飛んだ裕太が、斜め後ろの席の女子の机に鈍い音を立ててぶつかった。
 裕太は動かなかった。勢いよく机にぶつかったから失神したのかもしれない。
 喧嘩は何度も重ねただろ? なんでそんなに弱くなってんだよ、裕太。ぶつかる前にガードもしなかったのか? だからいつまでも高山や城田みてえなばかに勝てねえんだよ。
 それとも、わざとか?
 俺はそれ以上裕太を殴らなかった。殴っても無意味だった。
 「入谷!」
 やっと来たか、正義の味方の教師軍団。
その中には佐々木もちゃんといた。
ずいぶんと遅いじゃんかよ。
俺は、教師のやつらに言われるがままに連行された。


 Yuta and all side


「二年の竹村って生意気じゃねえ?」
夜の七時、裕太の部屋で唐突に高山が言った。ピアスだらけの耳をいじりながらおなじみの下品な笑顔を浮かべている。
上総の名前が出てきて、裕太は心臓が止まりそうになった。
「だよなあ、しょっちゅう俺らんとこ来といてあいさつもねえし」
高山に続いて城田がねばりつくようににやにやと笑った。
「一発ボコっちゃう?」
 貴島がへらへらと笑う。その空間にいる四人は、裕太以外はみんな吐き気のしそうな笑みを浮かべていた。上総の名前が出てきた裕太には笑う余裕がない。
 上総を、ボコる?
裕太は何も考えられず、ただ呆然としていた。一瞬、自分たちの仲がばれたのかもしれないと思ったが、どうやら違うらしい。上総が三年の廊下をしょっちゅううろうろしていることがいけないらしい。それだけの理由で上総をボコる。いつもの憂さ晴らしのパターンと同じだ。同じだけど、相手が上総じゃ絶対殴れない。
「どうしたよ大石。なにおまえびびってんの?」
 城田が、裕太をばかにして笑った。
「は? ありえねえし!」
 裕太は話しを振られて焦り、固まった顔を一生懸命にいつも通りの笑顔に変えた。その顔が少しひきつっていることに裕太自身は気づかなかったが、高山と城田だけ、そんな裕太を見て顔を合わせてにやけた。
「だよなあ、優等生ぐらい一発だよなあ」
 高山が口を細い三日月のようにつりあげて笑った。
 ここで裕太をかばえば、もっとばかにされる。
 裕太にとって、それだけは避けたいことだった。ばかにされるのが恐いよりも、ばかにされきった後の居場所の消失が恐かった。
「当たり前だし!」
 俺のその言葉で、上総の呼び出しが決定した。
 昼間、あんなに楽しく話していたのに。
 裕太の体を、罪悪感が締め付けた。


どうして高山と城田が上総の家を知っていたのかは裕太にはわからない。わからないけど、そんなことはどうでもよかった。裕太にとってはあたりまえの道だったから、動転した頭じゃそれがおかしいことに気づく余裕はない。
上総の家のドアを貴島が開けて、出てきた母親に上総を出してもらうように頼む。役名は友達、名前は高山。とりあえず貴島はズボンの変形を許されるほど強い立場じゃなかったから、怪しまれながらもうまくいった。上総が頭のいい人間だったから無駄に反抗しなかったってこともある。玄関の影に隠れていた裕太達と上総が顔を合わせると、上総は一瞬びっくりした様子を見せたが、何も言わなかった。裕太も何も言わなかった。
「ここじゃ邪魔ですから、向こう行きませんか?」
 先に裕太達を誘導したのは上総だった。上総は道の先、街頭ばかりが明るい住宅街をすらすらと流れるように進んだ。その間、高山と城田はしきりに顔を合わせてにやけていた。
 裕太は何も見ることができなくて、ただ下にうつむきながら歩いていった。
「なんですか」
 一番近い公園まで来たところで、上総が裕太達を振り向いて聞いた。冷め切った冷たい目。裕太に向けられたものではなかったが、それでも裕太は上総の目を見られなかった。
「おーおー反抗的だなあ。呼び出されたんだから何されるかぐらいわかんだろ、頭いいんだからさあ」
 城田が暗がりの中で嫌味に笑って、高山も貴島もそれに続いて笑った。上総はそれを軽蔑するように見ている。
「大石、おまえやれよ」
 高山が、三日月型に口を歪ませて裕太に命令した。突然の指名に裕太は身じろぎしてしまった。
「お、俺じゃなくて貴島の方がよくねえ?」
 裕太の心音が高くなる。耳元で自分の鼓動が聞こえるほどに。
「貴島はこの間ホームレスやった。次はおまえの番だよ」
 高山が小汚い笑みを消して、顔は歪ませたまま裕太睨みつけて命令した。裕太がどんな風に言えば相手を殴ることになるか、高山にはすべてわかっていた。裕太にはこのグループ以外居場所はないことも、裕太と上総が屋上で笑い合っていたことも、全て。
 高山と城田にとって、これは暇つぶしの遊びだった。でかいナリのくせにいっつもびくびくして、高山と城田にとって裕太は目障りな存在だった。溜まり場としての裕太の家、遊ぶための裕太の金。高山と城田が裕太と一緒にいるのなんてそんな理由だった。
 利用されるだけの玩具は、いつでも俺たちのために尽くさなくちゃいけない。一緒にいさせてやってるんだからそれくらい当たり前だろ。
高山と城田の持論で、裕太のしらないこのグループのルール。
「びびってんのかよ?」
 城田のその嘲笑が合図となり、裕太は決めてはいけない覚悟を決めた。
 上総の正面まで行き、上総を睨みつける。十センチ以上の身長差はでかい。裕太は上総を見下ろし、上総は裕太を見上げ、睨みつける。
 裕太の斜め後ろの方から城田が二人を煽った。
「竹村、てめえ最近生意気なんだよ」
「俺らにあいさつもないのか?」
 高山の声に、上総は返事をしなかった。ただ軽蔑のまなざしを送っただけだった。
 その目を見て、高山と城田の顔が汚らしい笑顔に歪む。裕太から後ろ手に立っているその二人の様子を、裕太がわかるわけもなかった。
「大石、やってやれ」
 俺は、何をしているんだろう? 俺は、殴らなくちゃいけない。俺の居場所を守るために、上総のことを。
 裕太の頭の中に、昼間の笑い声が響いた。それと同時に高山達の嘲笑するこえも聞こえた気がして、拳を爪がくいこむほど強くにぎってそれを振り上げた。その瞬間に。
 ずっと裕太のことを冷たく睨んでいた上総の目が、和らいで微笑んだ。
 振り上げてしまった拳にブレーキなど存在しない。そのままの勢いと悲しみを乗せて、裕太の拳は上総の頬を強く打った。頬骨が裕太の角ばった手の甲にぶつかって痛かった。
 裕太は泣きそうになるのをこらえて、倒れそうになる上総をもう一度反対側から殴った。
 なんで逃げてくれないんだよ!
 高山と城田と貴島の冷やかしの声だけが聞こえて、上総がそのまま地面に倒れこんだ。倒れた上総を、高山が蹴った。城田が殴った。貴島も蹴った。
 裕太は、何もできずにただ立っているだけだった。


 Ryuhei and all side


 第二会議室のドアが音もなく静かに閉まった。今までいた数人の教師が消えて、第二会議室には佐々木と竜平だけが残る。
「……竹村が入院したことも、知らないだろ」
 ガツン、という鈍い音と何かが破けるような高めの音が教室内に響いた。
「あんまり備品壊すなよ」
 竜平の座っていたテーブルの一部がへこみ、それを殴った竜平の拳からは血が滲み始める。
「なんであいつは加減を知らねえんだよ!」
 誰を睨むわけでもなく、竜平が鬼にも似たような目を宙に浮かせていた。
「大石のせいじゃねえよ。貴島と高山と城田があばらを二本折って全身打撲させたんだ。大石は失神させただけだよ」
「失神しなけりゃ上総はあいつらとやっても怪我はしなかった!」
 佐々木に何を言われようと、竜平は視点をかえることはなかった。
 その様子を見た佐々木は、立ったまま竜平を見下ろしてため息をついた。
「おまえはそんなにばかな人間だったか?」
 チッと舌打ちをして、竜平はテーブルを思い切り蹴り飛ばした。目の前に立っていた佐々木がそれを後ろにひいてよける。
「荒れるなよ」
 そう言うと、佐々木は竜平の動かしてしまった長テーブルをいそいそと直し始めた。
 佐々木は誰が暴れても全然うろたえない。たぶん目の前で殺人が起きても動じることはないだろう。マイペースと言えばそれまでだが、佐々木のそれはそんな生半可なもので得られるような落ち着きではない。
「あんただってどうせ人のこと言えないんだろ」
「経験したからこそ言えることってのもあんだよ」
 佐々木はそう言いながら薄く苦笑するように笑った。竜平にその顔は見えていなかった。
「とにかく、ほら」佐々木は竜平の座るテーブルの隣に置いてあった原稿用紙とシャープペンシルを渡した。「さっさと書け」
「……なんだよこれ」
「見てわかんだろ? 反省文だよ」
 竜平の顔が、鬼から勉強嫌いな不良少年に戻り始めた。
「書けねえよこんなん」
 眉間に皴が寄り、生ごみでも見るかのような目になる。
「おまえはそんなにばかな人間じゃねえよ。教師受けする嘘を並べ立てることぐらいできるだろ?」
 佐々木がふわりと浮くように笑って、まるで全てを見透かしたような目で竜平に喋った。今度は竜平も佐々木の顔をとらえた。
「教師の言うことじゃねえよな?」
「俺は勉強を教えたくて教師になったわけじゃねえよ」
 きっぱりと、けれどもそれが佐々木の本音だった。今時めずらしい信念。
 竜平はうつむいて、少しの間黙った。静かな空気が教室をつつみ、進んでいるのは時計だけだった。
「……なぁ、裕太は今誰につかまってる?」
「つかまってるか。ずいぶんぞんざいな言い方だな」
 佐々木が立場上苦笑した。
 竜平が佐々木を指名したため、裕太は佐々木と話しをすることはできない。この一件の真相をちゃんと知っているのは佐々木だけなのだ。佐々木以外の教師に本当のことなど言えない。しかし、裕太は三人の中で一番頭が悪い。怒っている半面、竜平は裕太がまともな嘘をつけるのか心配だった。
「あいつは今保健室で寝てるよ。まだ気を失ったままなのか寝たフリしてんのかはわからないけどな」
 にんまりと悪戯をするこどものように笑って言った。要するに、裕太は寝たフリをしているのだ。
「まあ、あと三十分も起きずにいたら説教は明日に伸びるんだろうなあ」
 佐々木がわざとらしい声に演技がかった身振りを添えて言う。ただいまの時刻は五時。
「……あんがとな」
 ひとつの言葉をそのままテーブルに落とすように、竜平がお礼の言葉を言った。
「どういたしまして。さあ早く書け、竹村が入院してるとこは面会六時半までだぞ」
「はあ!?」さっきのしおらしい態度は一変して乱雑に変わる。「てめえそれを早く言えよじじい!」
「俺はまだじじいじゃない。反省文だけでかんべんしてやるんだからおとなしく書け」
 竜平は精一杯の怒りをこめて舌打ちし、反省文作成にとりかかった。


 Ryuhei side


 二二三 竹村上総
 四人部屋であるらしい病室のカーテンが閉まっているのは一箇所だけだった。他のベッドはカーテンが開ききって空だ。カーテンの閉まった空間、そこに上総がいる。
 俺は静まりきった部屋の中を進み、窓の近くで閉まっているカーテンを開けた。
「あ、遅かったね」
 上総が少しも驚かず、待っていたかのように起き上がる。その顔が苦痛に歪んだ。
「いいから寝てろよ」
「薬が効いてるみたいで昨日よりだいぶ楽なんだ」それからよいしょ、とじじいみたいな声を出して起きた。「いつ知った?」
「ホームルームん時」
「結構遅かったね」
「教師が口止めでもしてたんだろ」
「かもね。評判落ちるし」
 俺はとりあえず椅子のある窓際に腰を下ろした。上総はいつも通り年に見合わない余裕のある顔を浮かべている。
「上総」
「なに?」
「なんで殴られたんだよ」
 空気の流れが止まった。時を刻む時計の音だけが流れる。
 俺の言葉に答えようとしているのか、上総が俺の顔を見てすぐに視線を落とし、急におびえたような表情になった。
「僕・・・・・・恐かったんだ。僕を睨む裕太の顔がすっごい恐くて、蛇に睨まれた蛙みたいに動けなかったんだ。気づいたらもう裕太は僕を殴っていて、その後はもう何も覚えていないよ」
それから眉を寄せて泣きそうなくらいに恐い顔をつくった。
「どうして止めてくれなかったんだろう。・・・・・・僕、もう裕太を友達だなんて思えないよ。憎くてたまらない」
 最後の方の声は怒りに震えていた。
 上総までもがこの関係をなくしたいと思うなんて。
「・・・・・・嘘だろ」
「もちろん嘘だよ」
 本気で焦った俺の言葉を綺麗に横に流しつつ、ケロリとした口調で答えた。
 俺は深く息を吸ってため息を吐いた。
「おまえ、マジやめてくれよ」
「迫真の演技だったでしょ? 僕役者でも成功しそうだよねー」
 こっちは冷や汗だらだらだって言うのに上総はへらへら笑っている。この野郎。
「事実を言え事実を」
 呆れながらそう言うと、上総はへらへらと笑うのをやめて一瞬俺の顔を覗いた。それから顔を柔らかくして微笑んだ。
「竜平だってわかってるでしょ?」
 そのままその笑顔を白い布団の上に移動させる。
「裕太には僕を殴る以外に選択できるものはなかった。そうしなきゃ裕太の居場所はなくっちゃうから。あいつらの反吐がでそうな顔見たらわかったよ。裕太は試されてるんだろうなって。だったら僕は殴られるべきだと思ったんだ」
 上総はどこまでも大人びている。顔も考えも。
「俺のグループに入ればいいとか思わなかったのか?」
「それでうまくいくメンバーじゃないじゃん」
 確かに、俺のグループの奴らは裕太とは絶対気が合わないだろう。俺の目の前でだって平気で裕太の悪口が飛び出す。俺と裕太が仲がいいことに気がついてる奴もいるのに。
「あいつら、絶対俺らのこと知ってたぜ。たぶん見られたんだろうな」
「・・・・・・ただの八つ当たりかと思ってたんだけど」
 そう言って上総は苦笑した。
「んなわけねえだろ」
「でも僕も八つ当たりされるようなことはしてたし」
 それだって俺たちの様子を見に来てただけだけどな。
優しさを苦笑で返す上総に、俺は裕太を殴った時からずっとためていたことを聞いた。
「上総は、裕太を恨むか?」
 酷な質問だが、今日ここへ来た一番の意味はそれだった。裕太は上総に恨まれるべきことをした。上総には裕太を恨む権利がある。
俺たちがここで崩れてしまうか、続くか。
 俺の質問に、上総はさっきと同じ様に笑った。俺たちの中で一番年下なのに、やけに大人びた、何かを悟っているような笑顔。
「なんで裕太を恨むの? 殴られようと思ったのは僕なんだ。僕は他の方法だって選べたのに、この道を選んだのは僕なんだ」目線を動かした後に、顔が俺の方を向く。「どうして裕太を恨むの?」
「一方的に裕太が悪いだろ」
「そんなことないよ」
「・・・・・・おまえは裕太を許すのか?」
 意識を失うほど強く殴られて。あばらを折られるぐらいぼこぼこにされるのを止めもしなかった裕太を。自分を裏切った裕太を。
「他になにか道がある?」
 上総は笑顔のまま。他の道なんかいくらでもあるのにな。
 俺は上総の嘘なしの笑顔と言葉を確認して、ドアの外に待たせてあるあいつを呼んだ。
「許していただけるってよ、裕太!」
 裕太の名前を呼んだので上総が驚いたらしく勢い良くドアの方に振り向いた。「いぃっ」勢いが良すぎて体が痛くなったらしい。あたりまえだ、全身打撲なんだから。
 ドアからそるおそる顔を出した裕太は、いつも通りの情けない顔で俺たちの方へ進んできた。
「裕太・・・・・・」
 裕太は上総の目の前まで来ると、いきなり土下座をした。
「ごめん上総!」
「ちょ、待ってよ裕太!」
 病院で、しかも友達にいきなり土下座された上総はだいぶうろたえた。
「裕太おめえマジかよそれ!」
 真面目にやってる裕太が腹の底から笑えてくる。
「だから僕は怒ってないんだってば!」
「笑えすぎだから顔あげろよ」
 俺達の言葉にゆっくりと顔をあげる裕太の顔は、やっぱり子犬みたいに怯えている。
「おめえやっぱバカだな。さっさと座れよ」
 裕太は上総に確認をとるようにそっと上総の方を見上げた。それに気づいた上総は笑いながら「どうぞ」と言う。
 俺が急いで反省文を書き上げて保健室へ行くと、裕太は半泣き状態で横になっていた。俺は養護の教師が止めるのも聞かず裕太をベッドから引っ張りだして、上総の入院しているこの病院まで連れてきた。裕太に反論の余地はない。
 上総が裕太を許さないというのなら、裕太は上総に会わせないでそのまま帰るつもりだった。謝って償うこともさせてはいけないと思っていた。
 上総が裕太を許してくれていて、本当によかったと思う。こんなばかな裕太の過ちひとつで俺たちが崩れてしまうのは嫌だった。
 俺が窓際で、右斜め前に上総がいる。目の前には裕太がいる。俺を含めた三点を結んで、俺から見えるのは―――


Kazusa side


「上総、お友達」
「誰?」
「高山くんって言うらしいんだけど……髪も茶色いし、なんだかあんまりよくないお友達みたいね」
 勉強机に向かって塾の宿題を解いているところに、母さんが入ってきてそう言った。高山と呼ばれた僕の友達に対して、露骨に嫌悪感を表した顔だった。
 と言っても、僕に高山だなんて友達はいない。高山という名前で思い浮かぶのは、三年の不良の高山だけだ。しかもたぶん、その高山であたっている。
「本を貸す約束をしてたんだ。学校の授業で読書感想文を書かなくちゃいけないから」
 僕はさらりと思い当たるはずも無い約束を口にした。僕がにっこりと愛想笑いを浮かべると、母さんは中途半端に納得しきれていないように「そうなの」と言ってリビングに戻っていった。不良の外見よりも僕の信用の方が強かった。
 母さんが見えなくなったことを確認すると、僕は本の代わりに机の引き出しからカッターを取り出した。
 いざとなったらこれで自分を守ろう。
 カッターよりも役立つ喧嘩に負けない方法を竜平から教わっていたので、カッターはほとんどお守りだ。大体、向こうだって刃物ぐらい持っている。それも、カッターなんかよりずっとするどい刃物を。
 銀色に光るカッターをポケットにしまって、僕のお友達であるらしい高山くんの待つ玄関まで歩いた。勝つ自信こそないけれど、負けて怪我を負う自信なんてもっとない。そう思ってドアの外に出てみたら、思いもよらない人がそこにいた。
 裕太が、自信なさげにそこに立っていた。小さい頃、木登りをして降りられなくなってどうしようかと不安に揺れていたゆうを思い出した。
 僕が裕太達を誘って近くの路地の中にある公園まで歩いていった。あそこなら人もいない。だけど、僕が無傷で帰るのはかなり難しくなってしまった。裕太に殴られたら、どうしようか?
「なんですか」
 わかりきったことをあえて聞いた。聞かないと話は始まりそうになかったし。
 裕太を抜いたばかな先輩達が汚らしく笑って、反抗的だのなんだの言い出した。頭がいいのは努力だよ、先輩。
 耳がピアスだらけの男が―――確かこの人が高山だった気がするけど―――裕太の名前を口にして「やれ」って言った。ゆうがあわてて遠まわしに拒否している。拒否したところで裕太が僕を殴らなくちゃいけないことは何も変わらないはずだ。
 決まり。
ピアス男が裕太のことを指名した時点で僕と裕太の道は、決まった。
どうして決まったのかがわかるのは、裕太のことだから。
現に、ピアス男に睨みつけられたゆうは身じろぎしている。髪が少し長めに伸びた先輩のねばつくような声で
「びびってんのかよ?」
 そう笑われた裕太は、とうとう顔を固める。僕の頭にゆうが僕を殴るシーンが浮かんだ。
 けれど僕は、裕太の周りで漂うねばりっこい声、汚らしく笑う顔。その声と顔がやたら散っていることに違和感を覚えた。
 あんた達は僕が殴られることが面白いんだろ? 僕に向けられた笑いなら、なんで僕の方に集中しない?
 裕太が僕の目の前で止まって、上から僕を見下ろした。僕もそれに応戦した、フリをした。本気で裕太のことを睨めるわけがない。こんなシーン作りが必要なだけ。それに、裕太だって僕のことを見ているようで、実は焦点があっていない目なんだ。
「竹村、てめえ最近生意気なんだよ」
「俺らにあいさつもないのか?」
 裕太の後ろから、ピアスと長髪と、僕を呼び出してくれた高山もどきくんが裕太のやる気を誘うために僕にわざとらしい言葉を投げかけた。
 できるならあんまり、裕太にはこの人達と一緒にいてほしくないんだけど。こんな汚い目で笑う人達。
 まとわりつくような声を睨んだ。裕太よりも、あまりに低俗な人間だから。
 僕とあいつらの目が合った瞬間、あいつらの顔はさらに歪んだ。だけどその歪みは直接僕に向いてない。向いているのは―――。
 裕太に、だった。
 裕太が僕のことを殴る決意をしたのと同じ様に、僕も殴られる決意を決めた。
「大石、やってやれ」
 僕とあいつらの目が合うことが合図になったらしい。反抗的という意味かな?
 心ここにあらずな裕太の目線が、うわべだけで僕をとらえた。裕太には歪みきったあいつらの顔は見えない。笑ったあいつらの顔なんて見えるわけもないんだ。
 卑怯だな。
 僕を睨む裕太を、僕も睨んだ。裕太のことを、笑顔に歪むピアスや長髪に見立てて。
 裕太の体が一瞬ぴくっと動いて固まった後、すぐに裕太の握り締めた右手が持ち上がった。
 泣きそうな顔しないでよ裕太。僕はわかってるから。
 裕太の今にも泣きそうな顔が笑えた。すっごく哀しそうで、僕まで哀しくなってしまいそうなくらいで。
 裕太の振り上げた右手が僕の顔に向かってくる様はまるでセルガみたいだった。一場面一場面がはっきりと目に映る。殴られる僕はすぐそこにいるのに、迫ってくる腕は全然恐くなかった。それよりも、泣きそうな裕太の顔から目を離せなかった。
 頭がもげそうな程の衝撃がきた。ぐらつく頭で考えられることは何もなく、痛みもない。もう一発反対側から衝撃が入って、僕が覚えてるのはそこまで。


起きてみると僕はベッドに横たわっていた。体中が痛く、頭を動かすだけで痛みが体に浸透した。母さんが僕の真上で泣いていた。
「母さん?」
 僕の出した声はあまりにもか細く震えていた。腹筋が痛い。
「大丈夫だよ」
 それでもなんとか痛みをこらえて言葉をだすと、母さんはうなだれて大きく泣いた。
「なんで裕太くんが……」
 聞いたことのない母さんの声だった。憎しみと悲しみでかすれているのかもしれない。でも僕にはそれよりも、母さんの発した裕太の名前が残念でならなかった。
 ああ、もうばれちゃったのか。
 母さんを泣かせてしまった罪悪感よりも、裕太に対する気持ちの方が大きい僕はばかだと思った。ばかだと思った反面、それはしょうがないことだとも思った。だって裕太も竜平も、僕にとって家族以上に大切な人だから。
「大丈夫だよ」
 本当に、僕は大丈夫。どこも傷ついてないんだ。体は痛いけど、全然痛くないんだ。
 僕は泣き崩れる母さんをなだめようとがんばった。きしむ体を無理矢理動かして母さんに声をかけて、笑ってあげた。母さんに一番効くのは愛想笑い。気づかないのかな? いい加減、このばかしあいも飽きてしまったんだけど。
 翌日は学校の先生が心配した表情を顔面に貼り付けてやってきた。小脇に同情も抱えていた。びっくりしたとか大丈夫かとか、そんなお決まりの台詞を一通り喋った後、慎重に、殴られた時のことを聞いてきた。僕はほとんど覚えてませんといってその場を逃れた。先生が去ると、入れ違いに母さんがやってきた。着替えや食べ物を持ってきてくれた。痛み は昨日よりも軽くなっていた。薬が効いているのだろう。母さんは僕に昼食を食べさせると、一度家に帰ってまたやってきた。
 たぶん夕方には竜平か裕太か、もしくは二人がここにやってくるはずだ。どうしよう? 母さんがいたら少しやっかいだな。
「ねえ母さん」
「なあに?」
 いつも通りの偽者みたいな優雅な笑み。
「僕もう眠いから寝るよ」
「そう、じゃあ母さんもそろそろ帰ろうかしら。お休みの邪魔しちゃ悪いものね」
 これが三時のこと。母さんは狸寝入りを始めた僕にまた来ると言ってカーテンを閉めた。
 六時になって、竜平が来た。しばらく話をした後、裕太も来た。いきなり顔をだした裕太の顔はいつも通り情けなくて、突然でとても嬉しかった。
 僕がベッドで真ん中、竜平が僕の左で窓際、裕太が僕の右側に座っていた。僕から見える光景は、三角形をつくっていた。
 僕達の少し奇妙な三角関係は、これからも続いていく。きっと壊れたりしない。今回みたいなことが起きて少しややこしくなったりはするかもしれないけど、絶対に大丈夫だと言い切れる。
 僕たち点をつなぐ友情は千切れることはないから。
 僕たちの三角形は、永遠に続く。


© Rakuten Group, Inc.